〔恋煩い〕 ※サンプル
日差しの強さもさることながら、地面からの照り返しが暑さを異常にしていた。ぬるいエアコンの風にも意味があったのだと痛感した。
「そういえばね、またあの店に新しいパフェが出たらしいの」
嬉しそうに絵里ちが隣ではしゃいでいる。それだけで暑さが軽減されるような空気が流れる。絵里ちの爽やかさはどこから来るのだろう。到底、自分には身に付けられないと思わせるだけの力量がある。
頷いているだけで滞りなく話は進んでいく。それに嫌な気分はない。むしろその強引さに癒され、自分を表現することが苦手なウチには有り難いことだった。
「もう、さっきから頷いてばっかり」
絵里ちの眉間には僅かに皺が寄っている。話を聞いていないわけではない。しかし嬉々として話している絵里ちを眺めているだけだったことは事実だった。
どこの店が上がっただろうか。
脳内で数分前からの会話を繰り返す。絵里ちがお気にいりの店だっただろうか、それとも新しく開店した未開拓の店だっただろうか。
あぁ、絵里ちの緩みきった至福の表情が邪魔をして何も思い出せない。
「絵里ちはどこの店に行きたいん?」
「えーと…」
笑顔で質問返しをして難を逃れる。上の空だったことはばれてしまっただろうか。それでもいいか、ころころと表情を変える絵里ちを眺めているだけで幸せなのだから。
いつまでも隣を歩いていたい。
いつまでも一緒にいられたらいい。
それだけが今の願いだった。
店に着くと満席だった。人気店なのだからしかたない。他の店に行く気にもならず、名前を書いて待つことにした。
こういった場合、大概が自分の苗字を書くことが多い。しかしウチは迷わず絵里ちの苗字を書く。
「どうしていつも私の名前なの?」
そう聞かれる度にウチは笑ってごまかす。 決まってそれ以上追求しない。それを知っているから、繰り返してしまう。
自分の字体で書かれた“絢瀬”に思わず頬が緩む。
“東條”である自分が書いた“絢瀬”。
それは自分の苗字であるように存在している。そして呼ばれるときは、当然のように“絢瀬”なのだ。二人で立ち上がり、店員にも認められ、席に案内される。
一時の錯覚でもかまわない。祝福の中、肩を並べて歩くことは望んでいない。ただその二文字にはウチの利己主義が多大に含まれていることだけが事実である。
別々の進路を歩んでいくのだから、今だけは独占したい。
欲にまみれたウチを知ったら絵里ちは軽蔑するだろうか。それとも絵里ちは変わらぬ好意を向けてくれるのだろうか。
それは未だに読みきれず、曖昧な境界線上に揺られている。それもまた楽しんでいる自分は、この不協和から抜け出す気はないのかもしれない。
しばらくたわいのない会話をしていると遠くから聞き馴染みがある名前が呼ばれていた。自然と立ち上がり、店員に合図を出す。
「はーい」
恥ずかしげもなくはっきりと周囲に響く声で返事をする。立ち上がったウチに釣られるように絵里ちも立ち上がる。そっと横目で確認するとやはり何も気にしていない。
そんな鈍感なところも好きだった。賢くて、凛として美しく、非の打ち所がないと言われている絵里ちでも抜けている部分をウチだけが知っている。
あぁ、大好きやな。
この瞬間だけは、誰にも邪魔されない唯一のひとときなのだ。
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「やっぱり、雨の中はつらいわね」
前かがみになる絵里ちを見ると下着の線がくっきり透けている。もしかしてと前をのぞき込むと同様にブラジャーの色がはっきりと分かる。
ふとあることに気付く。
「なんで今日に限ってベストを着てないんや?」
「洗い中で替えがなかったのよ。夏期講習だけならいいかとも思ったし」
いや、良くはないだろう。
もしもここへ来ていなかったら、本人は気付かないまま家路を歩いていたかもしれない。短時間とは言え、まともに雨に降られてしまっては、透けないことはまずないだろう。
誘ってよかった。幸い部屋には自分の着替えがあるし、すれ違った人も数人程度で気にも留めていないだろう。
とりあえず、人の視線から守るために絵里ちの後ろにたった。不可思議に首をかしげるとエレベーターが到着した。下りてくる人はおらず、そのまま乗り込む。
エレベーター内の鏡に姿が映りこむ。水が滴る髪に濡れた服、そしてそこに普段は映るはずのないものがあった。
「きゃあっ」
鞄を抱え込み、みるみるうちに頬が赤く染まる。そのいやらしくも色気を感じさせる姿は、他の誰にも見せてはいけない。
瞳も潤み始めている。小鹿のように震えた絵里ちは、一人では何もできない子供そのものだった。
「もう少しだけ我慢してな。部屋に付いたら服を貸してあげるから」
「…ありがと」
消え入りそうなかすれた声で答えた。
あぁ、可愛い。
罪深さを感じながらも抱きしめたくなるほどの愛くるしさが溢れていた。一体、絵里ちはどこまでウチを罪深くさせれば気がすむのか。
もっとその先を他の顔を知りたい。欲望がふつふつと湧き上がる。
いけない。
本来ならば部屋に上げてはいけない。
本能的なモノが警鐘を鳴らしている。
ウチは絵里ちをどうかしてしまうのかもしれない。打ち震える内情を抑えつつ、雨に濡れた髪をきつく握った。
エレベーターが止まる音がするとしばらくして、扉が開いた。しゃがみ込んだ絵里ちは羞恥心からか、自ら立ち上がれないらしい。
「ほら、もうすぐやから」
手を伸ばして、絵里ちの腕を掴んだ。あるはずの体温は失われ、冷めきった感触だけが伝わる。無理やり立たせると引きずるようにして、玄関の内側に押し込んだ。
「もう、大丈夫やから」
タオルを取りに行くために手を離す。潤んだ瞳がこちらを見ている。今にも抱きしめそうになりながら、洗面所から持ってきたタオルを渡す。
理性が吹き飛びそうだった。
だめ、いけない。
まだ越えてはいけない。
動揺を悟られないよう言葉を紡いだ。
「シャワー浴びて。温まって落ち着いて」
「…希は?」
「ウチは大丈夫やから。その間に服も容易しとく」
潤んだ瞳がこちらを見て、戸惑った様子を浮かべている。
あぁ、もうせっかく我慢しているのに。
これはもう誘っているのか。
いや、絵里ちのことだ。自分の置かれた状況を理解しておらず、ただうろたえているのだ。
このまま閉じ込めておきたい。そう思いつつもなんとかバスルームへと絵里ちを押し込むと一息ついた。
「あれは反則や…」
壁にもたれ掛かりながら、シャワーの水音が響いてくる。我慢した自分を褒めつつもやらなければならないことは山積みだった。早く着替えて、服を用意し、温かいお茶の準備も必要だろう。濡れた制服を脱ぎながら、絵里ちに似合いそうな私服を思い浮かべた。
自分の服を着ることは初めてではない。何度か泊まりに来ているときに部屋着を貸していた。そして帰りが遅くなったときは、泊まっていき、ウチの服を着て帰っていったこともある。いくつか候補を決めてから、クローゼットから取り出すと共に自分用の服も取り出した。
ベストを着ていたおかげか、ワイシャツまでは濡れていない。袖は濡れているものの、絵里ちほどの寒さを感じるほど疲弊はしていなかった。
スカートをハンガーに掛けるとバスルームへと服を届ける。まだ絵里ちはシャワーを浴びていた。
響く水音は理性を吹き飛ばしそうだった。今すぐ扉を開けて、何も身にまとっていない絵里ちを襲いそうだった。
開けては、だめ。
知っているのに伸びそうになる腕を抑えながら、バスルームを出た。
お茶の準備をしながら、窓の外を眺めた。まだ小雨は続いて、しばらく止みそうにない。傘があれば十分しのげそうな強さにため息が出る。
もしもこのまま絵里ちが泊まっていってくれたら、まだ隣で笑っていられるのに。そして誰にも言えない秘密も作れる。シャワーを終えた絵里ちは身支度をして、すぐに帰ってしまうのだろうか。
まだ帰らないで、雨が止むまで話をしよう。
そう言えばしばらくは付き合ってくれるが、帰れる状況ならば帰るだろう。特別厳しい家でもないが、急な外泊は理由もなくできるほど甘い家ではない。
それくらい、分かっていた。
無性に孤独と寂しさが込み上げてくる。一人で暮らすには広い家には、気楽さと同時に常に哀愁が付きまとう。だからどうしても温もりを求めてしまうのだ。
それはこの部屋のせいでもあった。家族分の食器、家具、飾ってある思い出の写真。どれもが自分には家族がいた頃の温もりを思い出させるのだ。
こんなにも深い感傷は久しぶりだった。忙しく日々を過ごしていたせいで忘れていた。そして隣には絵里ちの温かさと重みがあった。
窓ガラスが雷鳴で振動する。小雨が豪雨になって、電車が止まらないだろうか。不本意ながらも下心が他人の不運を願ってしまう。
いつからこんな醜いものが湧き出すようになってしまったのだろう。純真無垢な幼い頃には知らなかった感情が、深い闇へと誘っていく。
どうにかこの無意味な思考を止めなければ。
そう思いつつも一度湧いた感傷は、心をむしばんでいく。せり上がりそうな涙を必死に堪える。それがさらに醜さを加速させていっているようで、感傷が心をえぐっていく。
あぁ、誰か止めて。
しゃがみこみそうになったとき、背後から天使の香りがした。
「もう希ったら、まだ髪が濡れてるじゃない」